夏期審査会のコメント(続き)

前回の投稿に引き続き、夏期審査会でのコメントを共有いたします。

前回は、初心者を脱してからの上達のポイントは姿勢、立ち姿であり、それを改善するためには日常からの意識付けが必要、という内容でした。
もう一つのポイントは、「自分の動きは自分で直せること」です。

武道の教授方法は、昔とは大きく変わりました。
私の師匠のさらに師匠は、技の名前も説明もなく、ただ見本をやってみせ、「はい、やってみて」だけだったそうです。
これは当時としても少々極端な例だったかもしれませんが、これによって、習う側は否が応でも師の動きに集中、観察し、それを自分に落とし込むプロセスを経なければなりません。
技の名前とか、表面上の動きではなく、そこに生じている動きの本質的なメカニズムを掴む能力が養われたわけです。

ただ、これは習う側に相当の能力と根気を要求する方法であり、そもそものスタート地点に立てないまま辞めていく人も多かったに違いありません。
それではさすがにまずいということで、今では基本的な動きから始まり、コツのようなものまで教えるようになりました。
その成果として、習えば誰もが一定レベルまで上達できるようになり、武道の一般化・大衆化に非常に貢献したと思います。
ですが、やはり弊害もあるもので、「教わったことを出来るようにする」のが習う側の役割であり、「教わらないことは出来ない」のが当たり前になってしまったのではないでしょうか。

基本的に、教えられるのは表に現れる動きだけです。
本当に大事なのは身体内部の働きです。これは一応の言語化はできますが、あくまで教える側の身体の感覚を言語化したものにすぎず、習得するためには、自分の身体の感覚への翻訳と落とし込みの試行錯誤が必要です。

ここで、教えてもらうのに慣れすぎたことの弊害が現れます。
昔のように、分からないことは自分で考えるのが当たり前の教授方法に慣れていれば違うのでしょうが、現代的なやり方に慣れすぎてしまうと、このような場合でも、分からないことを分かるように、自分で工夫するプロセスが疎かになっているように思います。
結果として、表面的な形を整えたレベル以上にいきにくい。
どんなに熱心に稽古されていても、自分で工夫しなければ、なかなか稽古量が上達に結びつかない。
非常にもったいないと思います。

そもそも、教える側も自分がやっていることを、全て、正確に、言語化できるわけではありません。
教える側が発信する時点で情報量が減っているのに、それからしか学ばなければ、世代を経るごとに劣化していくばかりです。
習う側は、言語化された解説は素直に受け入れつつもも、教える側が実際にやっていることを、全体的な雰囲気や印象、末端の動き、技を受けた時の感覚、これら全てを観察し、自分のものとしなければなりません。
(ちなみに、雰囲気や印象ってすごく大事だと思います)

難しいことを書いてしまっていると思います。
私自身が、今まで諸先生方から習ってきて以上をやれていたのかと問われると、正直冷や汗ものです。ですが、自戒を込めて考えても、あるべき姿勢はそうではないかと思います。
ご熱心に稽古されている方は特に、やるからには上手くなってもらいたいですから、今回のことを心のどこかに留めておいてもらえるとうれしいです。

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