「無理は続かない」(続き)

前回の投稿で、「無理は続かない」が、理の有無の判断は簡単ではないということを書きました。
大原則は「実践を通して自分で考える、検証する」ですが、今回は私の見方を書いてみます。

それは私なりの表現でいうと「通りが良いか」です。

自分の鍛錬と、相手に技をかける場合に分けてご説明します。

まずは鍛錬から。
騎馬立ちも四股踏みもちゃんとできると、足裏が床にスッと馴染み、上半身がスッキリ立ち上がる感じがします。
足の筋肉の疲労はあっても、やった後の動きはいつもより良くなります。
突きの力が足から生じて肚を通って拳先に伝わる感じがします。
身体内部の「通りが良くなる」感じがするものです。
このような鍛錬ができると、やればやるほど身体が整って、いい動きができるように変わっていくはずです。

反対に、無理のある動きをすると、どこか一部分が痛くなったり、体力が疲弊したり。
身体の「通りが悪い」感じになって、あまり気分のいいものではありません。
疲れもたまるし、故障もしやすくなるし、長く続けるのはそれこそ「無理」でしょう。

若い頃の、一つの過程として、そのような鍛錬を積むのは決して否定しません。
何かの競技を目指しているなら、競技に特化した鍛錬をやることもあるでしょうし、それ自体が無駄とは思いません。
(理の有無とはまた別の話として、どんな稽古も鍛錬も決して無駄にはならないと思っています)

ですが、ずっと稽古を続けたい、長い時間軸で上達していきたいのであれば、「通りの良くなる」鍛錬を指向すべきでしょう。

次に相手に技をかける場合です。
これも同様で、理のある動きができると、技の通りがよくなります。
どこも抵抗が生じることなく、力がスッと流れて相手が崩れる。
抵抗感がないので、拍子抜けするぐらいです。

こういう技は、受け側も(力みがないことが前提ですが)、身体の通りがよくなります。
不快感無く技を受けることができます。

反対に、無理があるときほど、相手の抵抗感を感じるはずです。
抵抗感があるということは、その抵抗が強くなれば効かなくなる、力に依存した技ということです。

なので、技の練習をするときは、極力力を抜いて、勢いに頼らずゆっくりやることをお勧めします。
やった感に乏しいかもしれませんが、目指すはやった感=抵抗感のないレベルなので、愚直にそれを目指すのが近道でしょう。

自分で鍛錬するときに比べ、技をかけるときの方が相手ありきなのでかなり難しく、受ける側の技量にも左右される部分はあります。
全てこのレベルで技をかけられたらそれこそ達人で、自分も試行錯誤の連続ですが、目指す姿はそこです。


さて、こうして考えると、表面的な形なり方法なりに理の有無があるのではなく、自分の工夫次第で理を生じさせることができるとも言えると思います。
凄まじい量の鍛錬で有名なある先生は、「その鍛錬が無駄かどうかは、3年間(10年だったかもしれません)、毎日やってみないと分からない」とおっしゃっていたそうです。

それ位の時間軸で、やってみる、続ける、違和感が生じたら自分で調整する、その繰り返しを経ることで、理が自分の中から浮かび上がってくるのではないでしょうか。

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